年寄りのたわごと

余命いくばくもない老人のぼやき、憂い、愚痴、恐れ。

友の死

槍ヶ岳
ごく親しい友が死んだ。
がんである。
めずらしくはない、二人に一人はガンになると言われている時代だ。
 
先日、その友を見舞った。
見舞の言葉を思案しながら、病院の長い廊下を歩いた。
幸い友は目覚めていて、同じ病だった共通の友のことを話した。
「彼は発病してから5年にもなるけど、すっかり元の生活に戻っているよ。あきらめないで、希望を持って頑張ろうよ・・・」
「ウン、ありがとう。でもね、希望なんてどうでもいい、と思うときがあるよ」
 
帰って来てからも、彼の言葉が耳に残った。
「希望なんてどうでもいい」という気持ちになるとき、そんなときはどんな時なのだろうか?
病気の苦しみに悲鳴を上げながらもがいているとき、「希望」なんて文字はないだろう。
大きな不幸の真ん中で苦しんでいるとき、「希望を持て」と言われても、その言葉はむなしく響くだろう。
じゃ、どんな言葉がいいのだろうか・・・私にはわからない。
 
その友が、永い眠りについた。
その友に、この世で会うことは絶対にない。確率としてゼロだ。
しかし、死後の世界があるとすれば会うことが出来るはずだ。
その世界があるかどうかはわからない。
わからないのだから、絶対にないとはいえない。ゼロではないのだ。
ゼロに賭けるか、ゼロではないに賭けるか、それはその人の自由だ。